音楽をテーマにした映画はたくさんあるが「どれか一つを選べ」と言われたら、迷わず『海の上のピアニスト』を挙げよう。

 大西洋を果てしなく往復する豪華客船ヴァージニアン号に置き去りにされた赤ちゃん。彼の名はナインティーン・ハンドレッド=1900。時が世紀の変わり目を告げる1900年に、この船で拾われた彼はこう名付けられた。

 ナインティーン・ハンドレッドは、やがてピアノ演奏で信じがたい才能を発揮する。楽譜は一切読まず、旋律は乗客達の表情や仕草に合わせて紡ぎ出されていく。その噂は海を渡り陸地にまで広がっていった。

 この映画の中のある甘く切ない旋律が、いまも私を捉えたまま放さない。そのために、どうしても、もう一度見たいという気持ちがつのる。そんな気持ちにさせてくれる映画は少ない。
『リトル・トリー』フォレスト・カーター(作)和田 穹男(訳 )めるくまーる(出版)

久方ぶりの感動だった。それも心の底の底からの。
山から噴き出す清冽な湧水に身体から心まで洗われた気がした。
読み終わってすぐさま電話をとり出版社に電話して二十部注文した。
愛する人々に配りたかったからだ。
                              倉本 聡

 この本の赤い本の帯に書かれている倉本氏の言葉は裏切らない。この書の序文で“『リトル・トリー』を分かち合う喜び”を記した南イリノイ大学のレナード・ストリックランドも

 『リトル・トリー』との最初の出会いを思い出すたびに胸が熱くなる。ひとたびこの本を読んでしまうと、もはやもとの自分に引きかえすことはむずかしく、世界を今までと同じ目で見ることはできなくなってしまうからだろう。

と、記している。

第一回全米書店業協会ABBY賞受賞作品

全国学校図書館協議会選定図書

日本図書館協会選定図書

厚生省中央福祉審議会推薦文化財

 数々の賞に輝く名作だが、この哀愁の漂う物語は、不思議なほど哀しさを覚えない。哀しさを覚えぬというより透明な空気のように広がって、いつしか胸の痛みは和らいでしまう。

 主人公、リトル・トリーは全てをあるがままに受け止めて生きることを学ぶ。それゆえに哀しさは哀しさでなく昇華され、むしろ太陽の光のように美しい輝きを放っている。

キャンドル

2004年2月11日 心の結晶
「キャンドルライトビジル」

殺伐と混沌が満ちている
それらが交錯している世界
憎しみが憎しみを生み
どこへ向かうか判らぬ正義

何もできない虚しさを抱き
今宵はひとりきりの
キャンドルライトビジル
平和への願いの火を灯そう

もう誰も涙を流さぬように
胸の痛みを消し去るために
静かにゆらめく炎を見つめ
癒されぬ魂に祈りを捧げる

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 昨年は反戦を訴えるためのキャンドルライトビジルがよく行われました。これは欧米でおこなわれてきた静かなデモンストレーションで参加者が全員ロウソクを持ち、ただ集まります。
 映画では「ペイ・フォワード 可能の王国」の最後のシーンに登場します。ご存知の方も多いかも知れません。
  インターネットという便利な通信手段を得て、わたしには幾度か不思議なことがあった。縁もゆかりもない別々の三人のメル友から同時に一冊の本を薦められた。「聖なる予言」である。

 だいたい、この本は題名が良くない。まるで新興宗教か何かののような感じがする。そのため、薦められても、すぐには探してみようとも思わなかった。

 この本に出逢ったのは、ある年の夏、角川の夏の百冊に選ばれて、本屋の入り口に並べられていた時だった。角川が自信を持って薦めるのなら、この本を多くの人が読んでいることになる。事実、この本は読み終えたら誰かに薦めたくなるような本なのだ。誰彼にも、ではなく、大切に思う親しい人に読んで欲しくなる本である。

「聖なる予言」の第一章、変化のきざし、16ページにこう書かれている。

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あなたは何か、自分がやりたいことについて、予感とか直感を感じたことはない?人生の進路についてはどう?そして、なぜ、そんな感じがしたか、不思議に思ったことはなかった?そのあと、そんなことはすっかり忘れて、他のことに夢中になっていたに、ある時、誰かに会ったり、何かを読んだり、どこかへ行ったりしたのがきっかけで、望んでいた方向に導かれたという経験はない?

(中略)

こうした偶然の一致は、どんどん頻繁に起こるようになって、ついに単なる偶然を超えていると、私たちは思い至るのですって。まるで何か説明できない力に、私たちの人生が導かれているかのように、それが運命づけられていたと感じるの。

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私たちは常に予感、直感に導かれて生きている。「聖なる予言」を読めば、まだ自分自身のことを本当に知らない自分に気がつくことになる。
 一冊の本との出逢いは、時空を超えた人(作者)との出逢いなのかも知れない。そういう意味で本を読むことは、それを生み出した人の心の宇宙に触れ、自分の心と重ね合わせ、新たな宇宙を生み出すことのようにも思われる。

 『旅人』は湯川秀樹(角川文庫¥420)の自伝である。ふと興味を覚えて、手にとって序文を読んでみました。思いがけず美しい文章だったので、すぐにレジに足を運んで買ったのを覚えている。

 「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、できるのである。目的地がどこにあるか、まだわからない。もちろん、目的地に向かっての真っ直ぐな道など、できてはいない。」

 この書で一番、印象に残っている文章で、『旅人』では湯川は物理学やその研究について、あまり多くを語らず、むしろ人間の孤独さを淡々と綴っているようにも感じられる。

 鎌倉やかしこのはざまここの谷深くも人は思い入りつつ

 この歌は哲学者、西田幾太郎先生を鎌倉に訪れた時のことを思いだして詠んだ歌で、最初、湯川が短歌に親しんでいたことに意外な気持ちを覚えた。

 けれど、人が「地図を持たない旅行者である」と語る湯川の人生観に思いを馳せると、素直にうなずけるものがある。この本を読み終えて、一人の人間の心の深遠に触れたようにも感じた。
 
 絵本は子どもだけのものではない。大人が自分自身のために絵本を買っても良いと思っている。イラストレーターの田原 田鶴子は、様々な宮沢賢治の童話の挿絵を手がけている。特に「銀河鉄道の夜」(偕成社)はお気に入りの一冊である。

 ところで、生命にあふれた地球、この美しい惑星は、天の川、つまり銀河のはずれに位置している。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の物語の始めに、学校の先生が、銀河の形を示した凸レンズで太陽の位置を説明する部分がある。

 この童話の印象が強かったせいか、わたしはすっかり銀河の全容はすでに解明ずみだと思いこんでいた。ところが、ニュースで銀河の星々の位置は、現在、調査中であることを知った。これは後、数年の時間を要するそうである。

 宮沢賢治はその当時、アインシュタインの相対性理論を理解できた数少ない人物のひとりであったらしい。賢治は「銀河鉄道の夜」で遠い未来をみつめていたことになる。

 この童話を初めて読んだのは小学生の時のことだった。正直に言えば、あまりよく理解できなかった。再び手に取ったのは中学生の頃で、SF小説やマンガを読みふけっていた時である。その時ふいに、ここに描かれている宇宙は、宮沢賢治の心のなかの宇宙そのものなのだと強烈に感じた。

 それから、数年に一度、ふと思い出したように「銀河鉄道の夜」を読んでみる。不思議なことに読むたびに印象が変わる。わたし自身の心の変化が新たな世界を呼び起こしているためかも知れない。
 この本の題名は良くない。「意識の進化とDNA」(集英社 ¥514)では多少、遺伝子に対する意識がなければ手に取ることはできない。しかし、ぎこちなさはあるものの、一応、恋愛小説である。

 この画像では細かな文字は読み取れないかも知れないが、本の帯にはこう書かれている。
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「いのち」がわかる生命科学の入門書

なぜ私たちは愛するのか、感動するのか。
遺伝子と心の仕組みを注目の科学者がやさしく解説。

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入門書と書かれてある通り、おそらく中学生が読んでも理解できると思う。著者の柳澤 桂子は「はじめに」にこう記している。

「私は自分の脚で歩く能力を失って、そのかわりに見知らぬ人の心の中に愛を目覚めさせる力を得たのである。私の状態がもっと悪くなれば、私はもっと大きな力を持つようになるであろう。
 この時、わたしは瞬間的に気づいた。無限小は無限大であると。理屈ではなく、身体感覚としてそれを感じ取ったのである。そのことに気づいてみると、無限小が無限大である例がこの世には何と多いことであろうか。欲を捨て、心を無にしていくことによって、そこに何かが満ちてくることにも私は気づいた。それは愛であり、勇気であり、力であることを私は実感した。」

 わたしは、この本を読むまで詩を書いたり、短歌を詠んだりしてきたが、それらは、すべて自分自身のためのものでしかなかった。しかし柳澤桂子は、この本の中でDNAのことを語りながら、実は愛を求めていた。その愛は自己愛を超えた遥かに大きなものだった。

 その事に気がついた時、言葉にならないほどの大きな感動の波が打ち寄せてきた。そして、ふとある人物が思い出された。突飛に思われるかも知れないが、ベートーベンである。彼は聴力を失っても作曲を続けた。

 彼の最後の交響曲第九番ではフリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜の歌」の合唱が作られた。その歌詞の一番最初にベートーベンの自作の歌詞が添えられている。

  おお、、友よ! このような悩みに満ちた音楽ではなく
  歓びあふれる調べを皆で歌おうではないか!

 ベートーベンは第九番によって悲しみや苦しみ、それら全てから解放された感がある。彼の人生の後半の音楽には安らぎと喜びと美への追求が漂う。シラーの詩に作曲をしたのは、彼の大いなるものへの愛が究極の調べを織り成した結果である。

 長くなるので「歓喜の歌」の詩の一部分だけ、ご紹介したい。

 この世のすべての者は、大自然のふところで歓びを享受する。
 すべて善なるものも、悪なるものも、
 すばらしきバラの道を歩むのだ。
 大自然は、われらに等しくくちづけし、ぶどう酒と、
 死の試練をこえた友を与える。
 そして小さな虫にさえ歓びが与えられ、神の前には天使が現れる。

  太陽が壮大な
  天空の軌道を駆けるが如く、
  走れ兄弟たちよ、君たちの道を、凱旋の英雄のように喜びに満ちて!
  百万の人々よ、互いに抱き合え!このくちづけを世界に!

 
 全ての芸術(詩を含めて)が、いつかは「歓喜の歌」へ、そしてベートーベンの第九へと辿る遥かな旅の途上にあるのだ。そして柳澤 桂子の求める意識の進化(愛の形)は芸術の世界を超え、さらに大いなるものへと誘っている。

手紙

2004年2月6日 読み終えて
谷川俊太郎の詩の中で「手紙」が一番好きだ。詩集(集英社)の題名にもなっている。何度も何度も繰り返し読み続けたので、いつの間にかカバーも失くしてしまい、まるで古本屋で手に入れたみたいな、手垢のついた汚れた本になってしまった。

 ブックレビューでこの詩集を捜してみたら、見つかったので、ああ確かに、このカバーだったと懐かしく、また、いろいろな事が思い出された。

 いつの事だったか忘れたが、彼の講演会に出かけた時、思いがけず、彼はピアノの演奏を披露した。

「バイエルの曲のいくつかに詞を書きました」

と、紹介した後で弾き始めたのだが、お世辞にも上手とは言えない演奏だった。わたしもバイエルを練習した事があるけれど、あの練習用の教則本を楽しいなどと、一度も感じたことがない。けれど、詞がつくと、その印象は心和ませるものに変わった。いまは、谷川俊太郎の詩がついていて、子どもたちを楽しませているのだろうか。
 
 谷川俊太郎は時には苦しみを吐露した、せつない詩を書く時もあるけれど、この時の詩の朗読はスライドで写真を投影しながら行われた。60代という年齢を感じさせない若々しさとユーモアに富んだ内容で、時々テレビに登場して見せる横顔とは別人の様だった。そういう訳で講演会は最初から最後まで聴衆の笑い声にあふれていた。

 彼は詩人と呼ばれる前に芸術家なのかも知れない。生活の中にあるものすべてを美しく羽化させる魔術を秘めているのかも知れない。

 講演会の後で、まだ読んでいない「真っ白でいるよりも」という新しい詩集を購入し、それと共に詩集『手紙』にもサインしていただけることになった。彼は、『手紙』を手に取ると、わたしの顔をしばらく見つめ、微笑んだ。わたしも微笑を返した。

 わたしにとって、この詩集がとても大切なものであることを、きっと彼は感じてくれたに違いない。「谷川俊太郎」と太い、しっかりとしたタッチで書き終わると、そっと手を差し伸べて握手をしてくれた。

 小さな手だった。けれど、その刹那、手の温もり以上の温かさが、わたしの心をつかんで揺さぶっているように感じた。
 「コンタクト」この映画を一番のお気に入り、一番のおすすめにしている。購入したDVDは、この映画だけで(後はレンタルで満足)もう何度も何度も繰り返し見ている。

 実はこの映画の感想を語れるほど、わたしは科学や物理や宗教などを深く理解しているとは言えない。ただ、ひとつだけ言えることは、この映画が新しい人生の扉を開いたということです。

 この映画の原作者はカール・セーガン博士(1934-1996)です。

 セーガン博士は1950年代からNASAの顧問やコンサルタントを務め、アポロ計画では月に飛び立つ前の宇宙飛行士の指導者であり、マリナー(水星、金星、火星)、バイキング(火星)、ボイジャー(木星、土星、天王星、海王星)およびガリレオ(木星系)の惑星探査計画の実施に関わりました。つまりアメリカの宇宙計画の発足以来、その中心的役割を果してきた人物です。

 博士の著作(「コスモス」や「コンタクト」など)活動を含めると、セーガン博士から影響を受けている人々の数は計り知れません。また映画「コンタクト」の製作者として、博士は脚本段階から深くかかわってきました。

 1995年冬には、骨髄異形成症候群と診断され、骨髄移植を3度、受けていたにもかかわらず映画の撮影現場を訪れました。スタッフや出演者を前にして宇宙における人間の心の位置づけについて熱く語り、人々はすっかり博士の話に引き込まれ帰りたがらず、質疑応答は深夜にまで及んだといいます。

 1996年12月20日、博士は映画の完成を見ることなく62歳で亡くなりました。

 「コンタクト」はひとりの科学者、セーガン博士の最後の仕事、遺言、贈り物だと思います。この映画を見て感じることは人それぞれで、様々な思いが浮かんでくることでしょう。また、この映画のテーマは壮大なので、時間を経て見るたびに新たな発見があると思います。
 
 めったにCDを買うことはない。レンタルすれば済むし、気に入ったCDを購入し続ければ、本と同じ様に置き場所にも困ってくる。でも時には、どうしても欲しくなる時もある。先日、女子十二楽坊のセカンドアルバム「奇跡」を衝動的に買ってしまった。北京21世紀劇院で行われたコンサートを収録したライブDVD付きだったからだ。

 デビューアルバム「女子十二楽坊〜Beautiful Energy〜」が大ヒットし、日本のCMやテレビに出演するようになった。初めて見た時は、その演奏技術の高さに驚いた。調べてみると、メンバーの一人一人が中国のいろいろなコンクールで優秀な成績を収めている。プロの楽団員であったり、学生であったりするが、伝統音楽を大切に守ってきた中国、そして、この国の一人っ子政策が若き天才たちを輩出しているのかも知れない。

 ご存知の様に昨年、大晦日に行われたNHKの紅白歌合戦にも出場、これは中国でも大きく報じられたそうである。武道館のコンサートではチケット発売数分で完売してしまったそうだし、女子十二楽坊の活動の場は、これから、様々な国に広がっていくだろうから、ますますチケットは手に入らなくなるだろう。

 「奇跡」の中で気に入っているのが、『新古典主義(組曲)』モーツァルトやベートーベンの交響曲、ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」序曲である。聴き慣れているメロディが実に斬新である。DVDでは彼女たちの指先の華麗な演奏をまじかに楽しめた。

 女子十二楽坊はその名の通り、12名のメンバーで演奏している。前列左右に笛の2人、前列中に二胡組4人、第2列に琵琶組3人、後列に琴組3人がいる。本当は13人いるというのは、二胡組で、実際は5人いるが、そのうち4人が出演する。プロの楽団で演奏するメンバーのスケジュールの調整などのためもあるかも知れない。

 好みは人それぞれだと思うが、ニ胡、琵琶、笛、揚琴、琴の中では、やはりニ胡に一番魅力を感じる。宮尾登美子の小説「一弦の琴」(直木賞受賞)を彷彿とさせる。いま日本で一弦琴を演奏する人はどれぐらいいるだろうか。もはや一弦琴は消えゆく運命のように感じてならない。日本にも雅楽や、その他さまざまな伝統音楽がある。女子十二楽坊のように新しい世界を開拓する時が来ているのかも知れない。 
 映画「ロード・オブ・ザ・リング」の第3部「王の帰還」は2月14日に公開される。

 この映画の原作は「指輪物語」と訳されている。イギリスのオックスフォード大学の教授John Ronald Reuel Tolkien(トールキン)氏がもともとは自分の子供に語って聞かせた「ホビットの冒険」の続編として書いたものである。

 まだ原作を読んでいない方は、「ホビットの冒険」岩波書店(上・下)から読み始めると楽しいと思う。それに映画の内容と重複はしていない。続編の「指輪物語」は大人向けのファンタジー小説で重厚で、その内容はとても深い。よく「ファンタジー文学の金字塔」と呼ばれている。

 全9巻からなる「指輪物語」はすでに映画を見られた方、本を読まれた方なら、ご存知の様に
「旅の仲間」
「二つの塔」
「王の帰還」の3部構成になっている。

 映画でも、いよいよクライマックスの「王の帰還」。小説でも7,8,9巻が一番面白い。途中、どういう結末が待っているのか予想がつかない。まさに、はらはらドキドキの展開である。これだけ長い本でも他の本を一切、手に取らずに(わたしにとってこれは、すごく珍しいことで)一気に読んだ。

 他のファンタジー小説を調べてみたのだが、トールキンの「指輪物語」と同じくらい有名なのが同時代に書かれた「ゲド戦記 」U.K.ルグウィン作、でこちらは
「影との戦い 」
「こわれた腕環 」
「さいはての島へ 」
「帰還 」
 の四部作である。まだ読んだことはないが、機会があれば、ぜひ読んでみたいと思っている。

 その他に、これも同時代に生まれた「ナルニア国ものがたり」C・S・ルイス作 瀬田貞二訳、岩波書店はお薦めである。全7巻で
1.「ライオンと魔女」
2.「カスピアン王子のつのぶえ」
3.「朝びらき丸 東の海へ」
4.「銀のいす」
5.「馬と少年」
6.「魔術師のおい」
7.「さいごの戦い」
 子供から大人まで楽しめるやさしい文体の本である。

 「指輪物語」も「ゲド戦記」も「ナルニア国ものがたり」もゲームのRPGに大きな影響を与えている。「ドラゴンクエスト」が代表作かも知れない。これらのRPGのシナリオライターはファンタジー文学をこよなく愛した青春時代があったのだと想像している。当然「ハリー・ポッターと賢者の石」の作者、J・K・ローリングもファンタジー文学やイギリスの伝承物語の影響を色濃く受け継いでいる。
DVD ワーナー・ホーム・ビデオ 2003/12/06 ¥1,500
時間旅行という概念を初めて創造したによる不朽のSF文学を映画化。

 レンタルビデオで「タイムマシン」という映画を見ました。2年ほど前に公開された映画でしょうか?不思議なことにこのSF小説を書いた原作者H.G.ウェルズのそう孫であるサイモン・ウェルズが映画監督でした。

 昨年、同じSF作家のジュール・ヴェルヌの特集を教育テレビで放送していました。ヴェルヌが小説で書いたことが、いまの現代世界をかなり言い当てているので驚いたのをおぼえています。そして彼の小説は中学生くらいの頃、何冊か夢中で読んだことがあり、その時のことを懐かしく思い出しました。

 「タイムマシン」では、さらに未来へと旅を続けます。いま、ふと思うことはこれからの地球はどうなるのだろうということです。おそらく温暖化が進み海面は上昇し始めるでしょう。さらに二酸化炭素が増えてオゾン層の破壊も拡大するはずです。そうしたなかで地球の生命はどうなっていくのか・・・それとも、こうした問題を回避できる科学力を発展させることができるのでしょうか?

 わたしの想像する未来の地球は海に浮かべた巨大なフロートで(屋根は紫外線から生き物を守る透明なシールドで覆われていて)人々は暮らしています。大地の大半は海に水没すると思いますから、他の惑星や宇宙ステーションへと進出していく人々もいるかもしれませんね。さらに宇宙船で遠い遥かな旅を始める人々もいるかもしれません。

 いずれにしても(本当にずっと未来のことになりますが)太陽の膨張が始まります。当然、人は何らかの方法で新しい場所を求めていくでしょう。実はその計画、火星移住は、かなり本格的に研究が進められています。

 SF小説や映画などは不思議な魅力があります。全てではありませんが(仮にそれが、ほんの一部分であったとしても)想像したことが現実になるという不思議です。例えば飛行機やロケットも想像から生まれました。

 百年以上も前に生きていたヴェルヌの想像は予言と呼べるほど未来を言い当てています。最近、未発表の短編が出版されましたが、その小説のテーマは科学力は決して人を幸せにはしないというものでした。けれど、わたしたちは自然と調和して生きていた時代に戻れなくなりつつあります。

 北アメリカ大陸で生きていた先住民族は素晴らしい哲学を持っていました。自然と大地と生命のすべてと調和して生きる術を身につけていました。彼らは白人のことを「知識はあるが智慧がない」と考えていたかも知れません。「リトル・トリー」という本が静かなブームを呼びましたが、いまの現代生活で失われ、もう二度とは戻らぬ世界を懐古する人々、逆に、こういう豊かな精神性に触れて憧れを抱く人もいるかも知れません。

 しかし、いま、これだけの世界人口を支えるために科学はもはや、なくてはならないものです。人間の寿命は百年足らずですが未来への想像は尽きることがありません。叶えばいいなと思うことのひとつにいるかとの会話があります。手話を使ってチンパンジーなどに言語を教え、会話する研究が進められていますが、それと同じように、何らかの方法でいるかと会話ができるようにならないかなと思います。やがて、人は生活の場を海洋に求めるようになるかもしれませんし、いるかには人間の想像の及ばぬ哲学があると想うからです。
 穂村弘の歌集「ラインマーカーズ」をようやく手に入れた。昨日から何度も開いて読んでいるのだが、良いと思う作品と、そうではないと思う作品の落差がありすぎる。

 それは誰の歌集にもあることで、自分の歌なら百首詠んでみて、これはと思う作品は、一首あるかなしかだろう。それよりも、「お気に入り」に登録されている、ときおさんや、hikeさん、ナオさんの歌の方が、生き生きと心に迫って来る。

 ときおさんの日々、溢れるように生まれてくる句は尊敬に値する。句会にも参加され精進を続けておられ、もう、それを長い間続けているのだから、本物の俳人だと思っている。

 hikeさんは詩や短文も書かれているけれど、一番心魅かれるのは、やはり歌である。何気ない言葉が歌で返ってきたりすると、百本の薔薇の花より、綺麗にラッピングされた一輪のフリージアを美しく感じるのと同じ様な気がする。

 ナオさんの歌は格別である。感性が似ているのかも知れないが、穂村弘はやはり異性が詠む歌のせいか、心の底からの共感からは遠い。その点、ナオさんの歌には「女」という独特の秘めやかな何かが、そこはかとなく漂う。

 わたしは女性の美意識と男性の美意識は同じだとは思っていない。同じものを見つめていても価値観は大きく異なっている。その一例が「冷静と情熱のあいだ」の辻仁成のBluと江國香織のRossoかも知れない。こんな試みは後にも先にも、これきりだろう。

 愛し合うという二つの異なる形がある。決して同じではない。仮に幸福な恋人同士がいたとしても、それは、各々に異なっている。わたしは特に恋愛詩や、そういう歌を読むと、人間って実にひとりよがりな生き物なんだと思う。

 それだからこそ、短歌や詩や恋愛小説は美しいのだ。人は自己愛から抜け出ることのできない生き物だ。まれに、そうでない人もいるけれど・・・長くなるばかりなので話を「ラインマーカーズ」に戻そう。

 歌は(もちろん俳句も詩もそうだが)一人称の省略された文学だ。だから、想い(言葉)を凝縮して結晶化する作業に等しい。そして、ふと歌人は考える。「何故、詠うのか」別に歌人に限ったことではなく、すべての人が考える。「何故、わたしはここにいるのか」。

 穂村弘の「ラインマーカーズ」にも、俺はここで生きているんだという強烈な、あまりに強烈すぎて、思わず躊躇ってしまうようなメッセージが内包されている。
 
いつもより静かなる朝むかえたりカーテンを開け雪景色見る

見なれたる景色はふいに純白の世界に変わる夢見るように

降り積もる雪眺めつつ静謐(せいひつ)な時を愛しみ珈琲を飲む

 同じことを言葉に綴るのと歌を詠むのとでは差異がある。きっかけは短歌の掲示板に、hikeさん(ご自分のHPでは雅鬼さんというHNを使っておられます)が、とても素敵な歌を書き込んでくださって、おりしも雪の降る朝、すっかり刺激されてしまい三首の歌が生まれてきた。

 今日は以前、詠んだ歌にもう一度、目を通してみた。歌はその時の情景や心のありようまでも、よみがえらせるから不思議である。面映い気がするが、少しご紹介したいと思う。

黄昏に細き三日月輝やけり切られた爪の形のように

何気ないひとことゆえに幸せはほんのりとある心のうちに

月面を望遠鏡で見たならば傷つきし跡まざまざとあり

傷つきし跡ありてなお輝やけり月光の美は哀しさを知る

惑星に寄り添うような衛星のありて覚えん星の寂しさ

太陽と月と地球と生命とつながりて在るすべてのものは

ちっぽけな我在りていま星を見る生まれた訳を求めるために

真夜中に「月光」を聴く、もの思う吾の問い探す月のなき夜

かの人の曲を愛しむ我なれば寂しき心また愛しかり

沈黙の世界が生んだ魂の叫びに耳を傾けており

マニュキアを塗りたる我の選びたる曲に染まらん爪の先まで

薄桃が乾く間流る「田園」の旋律に酔う十本の指

「人びとよ抱き合おう」と語りたるシラーの言葉響いており

星の光

2004年1月13日 炭酸水の泡
 あの夜空に瞬(またた)く宝石のような星々の光の多くは、何万光年もの時間を経て地球に届いている。もしかしたら、その大半が命を終えて、ただ光だけが降り注いでいるのかもしれない。

 万葉集などの歌を読んでいると、作者は亡くなり、もうこの世にいないのに、歌にこめられた心情だけは、いつまでも消えることなく残っている。星の光も宇宙の果てまで永遠の旅を続けるように、歌もまた永遠に命を宿しているのでは、ないだろうか。

 それは歌に限らない。例えば、世界遺産に登録されたものや、美術工芸品なども、人の心の結晶のようなもので、古き良きものに触れると、そこには必ず、その時代に生きて、何ものかを生み出した人の命が存在している。

 日記を書くということも、飛躍して考えれば、生きている証のようなものかも知れない。誰かが死んで、誰かが書いたものが残され、その文章を読んだ人が、そこから何ものかを感じることができたら、それは星の光のように永遠という時間を手に入れる。

 誰かに語り続けていきたいと思う。それは、いま生きてこの世にいる誰かだけでなく、わたしが死んだ後に出逢う誰かのために残せるようなものを綴りたい。「星に願いを」という美しい曲があるけれど、今夜はまさに、そんな気分である。
 
 何かのきっかけで新しい世界の扉が開かれることがある。わたしを歌の世界に誘ったのは、やはり俵万智だと思う。

 彼女の歌集、著作物はたくさんあるけれど、その中でも『短歌をよむ』(岩波新書)は、短歌の入門書として優れている。この書の「はじめに」には、こう記されている。

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 万葉の時代、千年以上も前から歌いつづけられてきた、短歌という詩形。短歌の世界を知ることは、千年の旅をするということだ。と同時に、自分自身の「今」を見つめることでもある。
 短歌には、二つの「よむ」がある。千年の旅は、短歌を「読む」、そして自分自身を見つめることは、短歌を「詠む」。
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俵は『短歌をよむ』の中で多くの歌人の素晴らしい歌を取り上げている。その中で村木道彦の作品に彼女同様、わたしもすっかりハマってしまった。

 ふかづめの手をポケットにづんといれ みづのしたたるやうなゆふぐれ

 するだろう、ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 この感性は、あまりに眩(まばゆ)く何か遠く手の届かないものを感じさせたが、同時に、この歌を読むことで歌を詠んでみたいと思ったのも事実である。

 もともと詩を書き続けていたわたしは、短歌を定型詩と考えるようになった。俳句のような季語等の決まりごとがなく、ただ五七五七七と言葉を並べるだけで良いからだ。

 それに新しい短歌の世界を築いた俵万智のおかげで、それまでになかった親しみやすさが生まれていた。彼女の作品が短歌界に及ぼした影響は並々ならぬものがあると思う。

 こうしてわたしは、歌を読み、そして詠むようになった訳である。今日は久しぶりに拙い歌を詠んでみた。

時空超え出逢う人との運命の不思議を想う星見上げつつ

             夢野 華
 
 幸せな時間というものは、振り返ると夢のように儚く短く感じられるのに、宝石のような色褪せない煌(きらめ)きも放っている。

 アパートの真下の部屋に住んでいる老婦人は時々、三味線を弾いた。ほとんと顔をあわすこともなかったけれど、夕闇の中で響く美しい音色に耳を傾けていると、きちんと正座している姿が想像できた。

 津軽三味線のような華やかさはなく、しみじみと心にしみてくるような優しさがあった。上手なのか下手なのか、わかりようもなかったけれど、大切なことは、わたしが老婦人の演奏をこよなく愛しんでいたことである。

 演奏は周囲の住人への配慮のためか半時間程度だったけれど、こんなに熱心な聴衆がいたことを老婦人は知らなかっただろう。わたしはあえて、そのことを告げずに引っ越した。

 でも、それで良かったように思う。誰のためでもなく自分自身の心と向かい合うために弾いていた三味線のように感じていたからだ。
  
雪降れば冬ごもりする草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける

 古今集の紀貫之の歌です。冬には冬の美しさがあるのだよと、ささやきかけてくるようですね。春という季節を擬人化して詠んでいる点も面白いですね。

 ところで、春夏秋冬、どの季節が一番好きと問われて「冬」と即答する人は少ないかもしれませんが、冬にも冬の良さがあります。昨年の冬、このような歌を詠みました。
 
冴え冴えとふかまりてゆく寒さゆえ美しきかな星も孤独も

 あなたも冬なればこそ美しいもの、探してみませんか?
 わが君は千代に八千代にさざれ石の巌(いわほ)となりて苔のむすまで

 国家「君が代」の原典ともなっている歌ではあるけれど、古今集では『賀の歌』の題知らず、よみ人知らずとなっています。

 もともと、この歌の君とは、この歌を贈る相手であり天皇を指しているとは限らないそうです。

 実は、石に苔がむすように、いつまでもお元気でいて下さいねと親しい人に思いをこめて贈られた、新春にふさわしい、おめでたい歌だったのだなあと、わたしも今年初めて知りました。

 皆様、改めて、明けましておめでとうございます。今年もどうか、よろしくお願い致します。

 
 イギリスの神学者、ジョン・ウェズリーの「君ができる限り」という言葉があります。原文でぜひ味わっていただきたい名文(簡単ですよ)!

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Do all the good you can,
By all the means you can,
In all the ways you can,
In all the places you can,
At all the times you can,
To all the people you can,
As long as ever you can.

君ができるすべての善を行え
君ができるすべての手段で
君ができるすべての方法で
君ができるすべての場所で
君ができるすべての時に
君ができるすべての人に
君ができる限り。

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 人の善は、ひとりひとり異なった形をしていると思います。自らの命を捨てても惜しくないと考えるイスラム教徒もいますし、民主主義の競争原理が平和への道だと信じて疑わない人もいます。

 正直、わたしは、どれが正しくて、どれが間違っているのか、わからなくなることが、しばしばあります。でも、わたしの中で唯一正しいと思うことは、どんな善行も人の命に代えられないということです。

 人と人が殺しあうことのない、そんな理想の世界がいつか実現するのでしょうか?どこかで憎しみの連鎖を断ち切らない限り、それは無理かもしれません。また、それは、とても難しい問題です。

 でも誰かが声にだして語らなければ、それは伝わりません。わたし自身が生きている間に世界に平和がやってくると思うのは、あまりに楽観的です。でも、次の世代に思いを伝えていくことで、いつか、争いのない平和な世界がやってくるのだと夢見ることができるように思います。

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