幸せな時間というものは、振り返ると夢のように儚く短く感じられるのに、宝石のような色褪せない煌(きらめ)きも放っている。

 アパートの真下の部屋に住んでいる老婦人は時々、三味線を弾いた。ほとんと顔をあわすこともなかったけれど、夕闇の中で響く美しい音色に耳を傾けていると、きちんと正座している姿が想像できた。

 津軽三味線のような華やかさはなく、しみじみと心にしみてくるような優しさがあった。上手なのか下手なのか、わかりようもなかったけれど、大切なことは、わたしが老婦人の演奏をこよなく愛しんでいたことである。

 演奏は周囲の住人への配慮のためか半時間程度だったけれど、こんなに熱心な聴衆がいたことを老婦人は知らなかっただろう。わたしはあえて、そのことを告げずに引っ越した。

 でも、それで良かったように思う。誰のためでもなく自分自身の心と向かい合うために弾いていた三味線のように感じていたからだ。
  

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