11月01日付 朝日新聞の報道「小泉首相「政府は最善尽くした」 香田さん殺害で」へのコメント:

イラク戦争が始まる前から自分なりに反戦活動を続けてきた。香田さんが亡くなった理由は、数え切れないほどあると思う。ここに至るまでの世界の経緯、香田さん自身の行動の偶然の積み重ね・・・

 でも、一人の人の命が失われた。その事実は変わらない。ここに書きたいことは、たくさんあるけれど、わたし一人の思いで何も変わらないのも、よくわかっている。

 いつまで、こんな事が続くのだろう。憎しみが憎しみを呼び、人と人とが殺しあう世界の中で、生きている。どうしようもなく虚しく悲しい。
 この絵がいつ描かれたのか調べてみたが、よく、わからなかった。

 ゴッホは優しい人である。絵を描きはじめる前は、貧しい人々のために生きたいと牧師を目指していた。また彼の初期の作品を見ていると、農民の貧しい生活が暗く描写されている。

 いろいろな意味で、ゴッホは宮沢賢治と似ている気がする。また誰にも、彼らの理想は理解されることなく、人知れず、この世を去った。そして、二人に共通するのは、よき理解者としての弟の存在である。

 まだ樹の葉が色づき始めるには早いけれど、この絵を見ていると秋が少しづつ深まってゆく安らぎを感じる絵である。
 ゴッホはこの絵が描かれた年に画家、ゴーギャンと短い共同生活を送っている。同じ道を志す仲間が欲しかったのだろうと思う。でも芸術の世界は、その人の個性から生まれるものであって、決して他者と相容れないものを持っている。

 ゴッホとゴーギャンも自らの絵は自らの力でしか創造できないことに気がついたのかも知れない。結局、二人の生活は悲惨な結末を迎えて終わる。ゴーギャンは、その後、南の島、タヒチで新たな絵の境地を開いていくのだが、ゴッホにはゴーギャンとの別れは辛いものだったのだろう。心の傷は癒えることはなかった。

 この部屋で、ひとりきりで過ごしていたゴッホの気持ちが伝わってくる。しかし、芸術の世界は孤独だ。仮に周囲にどれだけの理解者がいたとしても、新たな世界を築くのは自分ひとりなのだと、しみじみと思う。ゴッホの不幸は、彼の絵の素晴らしさを生きている間に誰も気がつかなかったので、孤高のまま生涯を終えたことだろう。
 ゴッホは貧しかった。「ひまわり」の絵も麻布に描かれている。穀物などを入れるために使う麻袋の布地である。アルル時代、真っ白なキャンパスに絵筆をはしらせるなんて、ゴッホには夢のまた夢だった。

 どうして、この絵のひまわりは美しくないのだろうか。夏の太陽の下で見るヒマワリの花は生命力にあふれて、どれも生き生きとしている。けれど、この絵のなかの、ひまわりは、花瓶に飾られ、あまり元気がない。そう見えるのは、わたしだけだろうか?

 目の前の花を、あるがままに描く。まるで絵の中に自分自身をも投影させるように、ごつごつとした麻布の上に、何度も何度も、絵の具を塗り重ねるゴッホの姿が瞼に浮かんでくる。
 
 絵は売れなかった。彼の生活を支えていたのは、弟のテオで、ゴッホが亡くなった、翌年、テオも兄と運命を共にするように亡くなってしまった。そして魂を塗りこめるように描かれた絵だけが残された。
ゴッホが好きと言っても何でも好きという訳ではない。

わたしが好きなのは、ごく一部に限られている。今夜は「ゴッホの生涯」というサイト 

http://www.twentyfirst.net/gogh/で彼の生い立ちを読んでいた。

 そのサイトで、この絵のことを調べてみたけれど、詳しいことは見つからなかった。ゴッホをわたしは特別、上手な画家だと思っていないが、特に彼が南フランスで過ごした(アルルの時代と呼ばれている)それ以降の作品は、これがゴッホだと、ひと目でわかる独特な雰囲気がある。

 “A Wheatfield with Cypresses”この絵の特に、雲が好きだ。写実的という言葉からは遠い。「美しい」とか「綺麗な」とか、そういう言葉も似合わない。けれど、ゴッホは自分だけに見える、自分だけの世界と向き合っていた。彼だけが描くことのできた彼だけの世界に魅力を感じるのは、きっと、わたしだけではないと思う。
 ゴッホの絵は「ひまわり」が有名だけれど、わたしが一番好きなのは、この「夜のカフェテラス」。2年ほど前に1000円でポスターが売られていて衝動買いをしてしまった。

 この絵は9月に描かれていて、人々は昼間の暑さで疲れた体を、このカフェで憩い、癒していたのだと思う。お店から、こぼれてくる温かな柔らかい光と、夜空に瞬く星の光とが、心和ませる不思議な雰囲気をたたえていて、とっても素敵。「ひまわり」が描かれた時期と同じだから、ゴッホが南フランスで過ごしていた頃のものです。

 あの時のポスターは、まだ壁に貼っていない。ポスターと言えども額縁が必要だと考えているので、いつまでも飾れぬまま大切に部屋の隅にある。

パキラ

2004年9月12日 炭酸水の泡
 水栽培用のパキラを見つけた。小さくて可愛い。しかも葉を一杯茂らせていて、意外とたくましくもある。しかし、水だけで、これから先、本当に成長できるのだろうか?

 根っこの辺りにはゼリーのようなふにゃふにゃのゴムのようなものがある。大きくなれば、ぐらりと倒れてしまうかも知れない。それで、100円ショップで、もう一回り大きいガラスの器とガラスのおはじきを買ってきた。

 買ってきた器に移し変え、根元にガラスのおはじきを並べ、水と液体の植物活力剤を少し注いだ。根も安定したし、おしゃれで素敵な感じに仕上がった。よく水栽培用の竹が売っているけど、こういう感じに飾ってみようかな?週末、探してみよう。

 ※この画像はパキラという植物がどういうものかという参考に使いました。こちらのパキラは、もちろん鉢植えです。

サヤカ

2004年6月15日 炭酸水の泡
 仕事以外で携帯は使わない。ほとんど電源は切られたままだ。わたしは携帯が鳴ることで、大切なことを中断されるのは嫌いだ。メールも用件のみで終わる。その代わり自分のくつろぎの時間のためにパソコンは使う。日記を書いたり、必要な情報を得たりするのに必需品だ。それは今は、単に携帯より料金が安くすむ(経済的)という、ただ、それだけの事に過ぎない。

 携帯電話に5万以上を使う知人は、たくさんいる。わたしはネット依存症だと自負しているが、携帯電話依存症よりは金銭的には救われているような気がする。

 ところで親友のサヤカは携帯もあまり使わない。パソコンも使わない。そのかわりに手紙が届く。字の下手さは、わたしと大差ない。けれど夏らしい可愛い便箋を選んで、いま好きなテレビ番組のことや、愛犬の世話が大変なこと、などなど、他愛のない話を綴っている。

 ふとサヤカのその時の情景を想像してみる。手紙を書き終え、郵便局まで行き、わざわざ選んだ記念切手を丁寧に貼り付けて投函する。サヤカがわたしのために費やした時間を思うと、届いた手紙は例えようもなく愛しいものに思える。週末には便箋と封筒を買おう。
 プリンス・エドワード島の写真集は、たくさんの人が出版している。この本の副題も「世界一美しい島の物語」となっている。

 わたしは、言葉(モンゴメリの小説)でしか、写真でしか、プリンス・エドワード島のことを知らないが「世界一美しい島」と言われれば素直に信じてしまう。この島を、こよなく愛した一人の女性の魂によって、ただ美しいという言葉のみならず、この島に宿る生命すべてが美しく輝いているような気がする。

 できることなら、生きている間に、この島に行きたい。そして、もうひとつ、どうしても生きたい場所がある。それは、写真家、星野道夫がこよなく愛したアラスカである。

ISBN:406210024X 大型本 吉村 和敏 講談社 2000/03 ¥3,780
 最近、缶コーヒーなどにアルフォンス・ミュシャの絵が使われている。わたしの一番好きな画家の絵なので、つい、ミュシャの方の缶を選んでしまうことも、しばしば。この画家のことを詳しく知らない間は、女性画家だと思っていた。ミュシャが男性だと知った時の驚きを忘れることは、できない。

 1860年、チェコスロヴァキアのモラヴィア地方に生まれ、プラハ、ウィーン、ミュンヘンで絵を学んだ後、1894年に女優サラ・ベルナールのために描いたポスター「ジスモンダ」で一躍脚光を浴びることになる。その後、彼はアール・ヌーヴォーを象徴する画家になった。

 この画像の絵は「黄道十二宮・ゾディアック」で有名な作品のひとつです。ミュシャのカレンダーとか、ジグソーパズルなどなど、気がつけば、ミュシャの絵がだんだん増えてきました。いくら好きだと言っても、あまりお金をかける訳にはいかないですから安価で手に入るものばかり。

 ところで今、一番困っているのが、ミュシャの空き缶・・・名残惜しくて捨てられない。それで、同じ缶を買って同じ絵が2缶になると古い方を捨てるようにしている。
 初夏のような陽射しに汗ばみながら歩いた。こんなに暑いのに空は薄水色で、鳥は小さな群れを作り爽やかな風に乗って飛んでいる。

 久しぶりに花屋を訪れた。紫陽花の鉢植えが並んでいる。それにしても、いろいろな種類があることに驚いた。以前放送されたテレビ番組で、紫陽花は日本原産で西洋に渡って「東洋のバラ」と呼ばれたと聴いたことがある。

 人の手により品種改良が繰り返され、長い時間と長い旅路を経て、いま花屋の店先に並んでいる紫陽花たち。いや、紫陽花だけでなく、どの花にも人の想像の及ばぬ歴史が秘められているのかも知れない。そう思いながら美しい花を眺めていると不思議な気持ちになる。

 日記に書くために楽天製品レビューで探してみるとヤマアジサイ「白富士」の画像があった。花屋の紫陽花は青や淡いピンクや紫などの色とりどりの花だった。花の色は土壌が酸性かアルカリ性かで青か赤のいずれか(はっきりとは覚えていないけれど)に決まるはずなので、白は珍しいのでは、ないだろうか。

 もうすぐ梅雨がやってくるけれど、紫陽花は雨に濡れている風情が一番美しい。比較的に育てやすいのだろうか。庭先に紫陽花を植えている家も多いような気がする。憂鬱な季節に目に鮮やかな紫陽花は慰めにもなる。
 イラクには、いま世界中の人が様々な思いを抱いて注目している。「ぼくの見た戦争」を書いた高橋 邦典さんも、そんな一人だ。

 そして、今、拉致された三人も、それぞれにイラクの国民のために何かできることはないか、そんな志に燃えていた。 

 郡山総一郎さんさんは宮崎県出身。朝日新聞によると、「週刊朝日」の元契約記者で、いまはフリーの写真ジャーナリスト。

 高遠菜穂子さんは北海道千歳市の出身。麗沢大学外国語学部英語学科を卒業し、東京で1年間、会社員を務めた。2000年からインド、タイなどでボランティア活動を開始した。昨年4月からはイラクで緊急支援活動を始め、治安の悪化するバグダッドで単独で活動を続けていた。

 今井紀明さんは札幌市在住で、3月に立命館慶祥高校(北海道江別市)を卒業したばかり。NGO「NO!小型核兵器(DU)サッポロ・プロジェクト」の代表を務め、劣化ウラン弾による被害を止めようと、今月4日に日本を出発し、イラクに入った。今月下旬にも帰国する予定だった。(毎日新聞)

 どうして、こんな三人が拉致されればならないのかと考えると涙がこぼれてくる。どうして争うことでしか問題を解決しようとしないだろうか。どうしようもなく怒りがこみあげてくる。

 今後の政府の対応に注目したい。

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大型本 高橋 邦典 ポプラ社 2003/12 ¥1,365
 瞑想について書こうと思っていたら、こんなCDが発売されている事を知った。こんなのがあるんだな・・・と思った程度で買わなかった。今日、買ったCDはQUEENの「JEWELS」とジャズシンガーの綾戸智絵の「BEST」こちらは、また別の日に記したい。

 昨日は「かもめのジョナサン」からランナーズハイのことを書いた。人間の生活には静と動が必要らしい。ランナーズハイが「動」とするなら、瞑想は「静」ということになる。

 こういう事を書くと何かの宗教の話ではないかとよく誤解されますが、そういう事とは一切関わりがないのでご安心ください。わたしは瞑想は人間にとって必要不可欠のものだと考えている。

 「瞑想」という言葉を耳にすると何か難しいことのように思われるかも知れませんが、実はすごく簡単なこと。わたしの瞑想法はクラッシックを聴くことです。ロックやジャズのほうが大好きなのだけれど、瞑想する時にはクラッシックを聴きます。それが心身ともに一番リラックスできる方法なのです。

 「瞑想」にはいろいろな方法があると思う。例えば絵を描くのが好きな人、楽器を演奏することが好きな人、わたしはそれだけで瞑想になるのではないか、そんな風に考えている。要は仕事だけで何の趣味もないのが問題で、自分ひとり心ゆくまで楽しむ時間が持てないというのが問題なのかも知れない。

 またランナーズハイまでいかなくても体を動かすことも重要で忙しくて何もできないという人は休日には近くの公園を散歩するだけでも良いと思う。桜の花も咲き始めましたし、新たな発見がきっと、たくさん、あるはず。わざわざ桜の名所に出かけなくても、ひっそりと美しい花を咲かせている樹々はたくさんあります。気がついたことを日記に記せば効果は倍増間違いなしですね。

ISBN:4569371434 CD PHP研究所 2002/11/02 ¥3,000
 いま気がついたことだけど、この日記は一日で複数の日記が書ける。そしてプロフィールの質問は自分で書き直すこともできる。自分で質問して自分で答えるのだから単なる自問自答になってしまいますが、それでも良いと思う人にはお薦めします。

 初めて「カラー設定」が登場した時には苦労しました。色番号を入力して確認すると、とんでもない色の組み合わせになっている。できるだけ読みやすい配色になるよう頑張ったけれど、頑張った後で配色が複製できるらしい事に気がつく。ちょっとショックだった。

 でも、もし、わたしの日記の配色を気に入った方がいたら、自由に複製して下さってもかまいません。できれば「HOME」にある掲示板にメッセージを残して下されば嬉しいな。

 どうも本や映画の批評を書こうとすると自分でも知らず知らずのうちに固くなっている気がする。女性と書いてあるのに、どうも女性とは思えぬ文体です。もっと軽いノリで楽しく書いたら見に来てくれる人も増えるかもしれないけど、この日記はわたしの文章修行の場でもあるので、いたしかたありません。

 それに「レビュー選択」で映画や本などの画像をUPする機能がついてからは、視覚で訴える効果に感動してしまいました。まるで雑誌に投稿するような気分になれるじゃないですか。

 しかしプロフィールにも書いてある通り、読者を意識していないのが、この日記の欠点で、こうやって自分の都合を告白するのも良くないかも知れないね。でも本来、日記というのは自分が自分に語りかけるものなのだから、これからは、複数の日記を気の向くまま書くことも可能です。

 無料の日記サイトは複数あるけれど、やはりDiaryNoteの新しい機能は面白い。例えばわたしの本や映画や音楽などの文章を読んで「あ、面白そうだな」って探してくれたりする人がひとりでもいると、すごく嬉しいな。

 これからも炭酸水の泡のような、つぶやきを吐き続けるのだろうけど、儚く消え去る運命の言葉を日夜一生懸命綴りつける自分、そうせずにはいられない自分がいて、最近では、それを「どうして」とか「何のために」とか思わなくなってきました。

 わたしは書きたいから書いているだけだし、それを共感して欲しいという願いを読み手には抱いていません。ものを書く人の中で「共感して欲しい」と願う人がいます。実はわたしも、そういう時期がありました。詩を書いたり、短歌を詠んだりすると時には感想を寄せてくださる人もいます。

 ところが、自分(作者)の思いとは全然違っていることがあります。でも、誰かの詩や文章を読んで生まれてくるイメージはその人のものですよね。作者としては読み手の心の中に新たな何か(興味や感動など)が生まれたら、もう、それだけで充分なんです。「ありがとう」って思わなくちゃいけない。それ以上を望んではいけない。

 また自分と異なる考えの人と時にはトラブルが起こることもあります。しかし「正しさは人の数だけある」ので何が正しいのか何が間違っているのかは、究極的には個人の価値観が善・悪を決めるのでしょうね。何かを誰かと争うつもりで文章を書いている訳ではないので、勝手に文章を転載したり議論を始めたりするのはご遠慮下さいね。

 何だか、随分、脱線してしまいましたが、書きながら新しい発見が生まれるという経験をしたことがありませんか?例えば、女性の方で誰かに自分の思いを語りながら、本当の自分の気持ちに気がついたとか・・・わたしは、よくそんな事があります。詩を書いたり短歌を詠んだり、文章を綴ったりすると、いままで見えていなかった自分に気がつく、そんな発見があるんです。

 今になってようやく気がついたことですね。 

星の光

2004年1月13日 炭酸水の泡
 あの夜空に瞬(またた)く宝石のような星々の光の多くは、何万光年もの時間を経て地球に届いている。もしかしたら、その大半が命を終えて、ただ光だけが降り注いでいるのかもしれない。

 万葉集などの歌を読んでいると、作者は亡くなり、もうこの世にいないのに、歌にこめられた心情だけは、いつまでも消えることなく残っている。星の光も宇宙の果てまで永遠の旅を続けるように、歌もまた永遠に命を宿しているのでは、ないだろうか。

 それは歌に限らない。例えば、世界遺産に登録されたものや、美術工芸品なども、人の心の結晶のようなもので、古き良きものに触れると、そこには必ず、その時代に生きて、何ものかを生み出した人の命が存在している。

 日記を書くということも、飛躍して考えれば、生きている証のようなものかも知れない。誰かが死んで、誰かが書いたものが残され、その文章を読んだ人が、そこから何ものかを感じることができたら、それは星の光のように永遠という時間を手に入れる。

 誰かに語り続けていきたいと思う。それは、いま生きてこの世にいる誰かだけでなく、わたしが死んだ後に出逢う誰かのために残せるようなものを綴りたい。「星に願いを」という美しい曲があるけれど、今夜はまさに、そんな気分である。
 幸せな時間というものは、振り返ると夢のように儚く短く感じられるのに、宝石のような色褪せない煌(きらめ)きも放っている。

 アパートの真下の部屋に住んでいる老婦人は時々、三味線を弾いた。ほとんと顔をあわすこともなかったけれど、夕闇の中で響く美しい音色に耳を傾けていると、きちんと正座している姿が想像できた。

 津軽三味線のような華やかさはなく、しみじみと心にしみてくるような優しさがあった。上手なのか下手なのか、わかりようもなかったけれど、大切なことは、わたしが老婦人の演奏をこよなく愛しんでいたことである。

 演奏は周囲の住人への配慮のためか半時間程度だったけれど、こんなに熱心な聴衆がいたことを老婦人は知らなかっただろう。わたしはあえて、そのことを告げずに引っ越した。

 でも、それで良かったように思う。誰のためでもなく自分自身の心と向かい合うために弾いていた三味線のように感じていたからだ。
  
 イギリスの神学者、ジョン・ウェズリーの「君ができる限り」という言葉があります。原文でぜひ味わっていただきたい名文(簡単ですよ)!

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Do all the good you can,
By all the means you can,
In all the ways you can,
In all the places you can,
At all the times you can,
To all the people you can,
As long as ever you can.

君ができるすべての善を行え
君ができるすべての手段で
君ができるすべての方法で
君ができるすべての場所で
君ができるすべての時に
君ができるすべての人に
君ができる限り。

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 人の善は、ひとりひとり異なった形をしていると思います。自らの命を捨てても惜しくないと考えるイスラム教徒もいますし、民主主義の競争原理が平和への道だと信じて疑わない人もいます。

 正直、わたしは、どれが正しくて、どれが間違っているのか、わからなくなることが、しばしばあります。でも、わたしの中で唯一正しいと思うことは、どんな善行も人の命に代えられないということです。

 人と人が殺しあうことのない、そんな理想の世界がいつか実現するのでしょうか?どこかで憎しみの連鎖を断ち切らない限り、それは無理かもしれません。また、それは、とても難しい問題です。

 でも誰かが声にだして語らなければ、それは伝わりません。わたし自身が生きている間に世界に平和がやってくると思うのは、あまりに楽観的です。でも、次の世代に思いを伝えていくことで、いつか、争いのない平和な世界がやってくるのだと夢見ることができるように思います。