ただいま恋愛中の方にお薦めです。俵さんなりのユニークな解釈と鑑賞もおもしろい。

 この本を読むと、俵万智は本当に勉強家だなと思う。ともすると、自分の歌を詠む事に夢中になり、他の人の作品を全然しらない、私のような人も多いのではないだろうか。

 この本には有名な歌人の恋の歌ばかりでなく簡単な略歴が添えられているので、気に入った歌の歌人の歌集や出版物などもわかる。しかし、歌集はなかなか手に入りにくい。もっと大きな図書館が近くにあればと思う。

ISBN:4022642610 文庫 俵 万智 朝日新聞社 2001/01 ¥483
 花でふと思い出したのが、この「花束のように抱かれてみたく」である。短歌と文が俵万智で写真が稲越 功一の二人の手による文庫本である。

 この本がどこにあるのか、わからずに探すのに手間取った。久しぶりに開くと美しい写真と短歌に思わずため息がこぼれた。花が好きな友人にプレゼントした記憶もある。花の歌、花にまつわるお話、花の紹介、花の美しい写真、366日の誕生花に花言葉、とにかく花の情報も満載で、いろいろな意味で入門書かも知れない。

 短歌も素敵。気どりのない、さらりとした歌で心地よく響いてくる歌ばかりだ。俵万智はわたしが歌を詠むきっかけを与えてくれた歌人なので、あの頃の気持ちがよみがえり、懐かしいようで新鮮な気分になった。

 いま歌を詠んでいて歌とは何だろうと反芻する日々だ。これで良いのかという迷いがいつもついて来る。苦しみながら詠んだ歌は自分でも良くないと思う。それよりも、素直な感動を詠んだ方が、ずっと人の心に届くものかも知れない。でも、その「素直な」というのが、また意外に難しくも感じる、この頃・・・スランプだね。

ISBN:4041754054 文庫 稲越 功一 角川書店 2000/04 ¥630
 文章は軽い。けれど歌人のみずみずしい感性も生きている。

「ある日、カルカッタ」はそんな紀行文だ。もちろん短歌も詠みこまれている。歌だけでは伝えきれない何か、言葉だけでは伝えきれない何かがあって、この二つが調和している。

 読み終えて、何だか無性に旅をしたくなった。

ISBN:4101413215 文庫 俵 万智 新潮社 ¥400
 与謝野晶子の「みだれ髪」を読んで、ほとんど意味がわからず呆然とした。
 しばらくして翻訳歌集「チョコレート語訳 みだれ髪」のあとがきに俵万智が「半分も意味がわからない(二十歳の頃)」と書いてあるのを読んで正直ほっとした。
 俵万智の歌を通じてようやく与謝野晶子の歌の意味がおぼろげながら見えてきた。二人の歌から学ぶことは多い。

 

ISBN:4309012280 単行本 与謝野 晶子 河出書房新社 ¥1,000
 穂村弘の歌集「ラインマーカーズ」をようやく手に入れた。昨日から何度も開いて読んでいるのだが、良いと思う作品と、そうではないと思う作品の落差がありすぎる。

 それは誰の歌集にもあることで、自分の歌なら百首詠んでみて、これはと思う作品は、一首あるかなしかだろう。それよりも、「お気に入り」に登録されている、ときおさんや、hikeさん、ナオさんの歌の方が、生き生きと心に迫って来る。

 ときおさんの日々、溢れるように生まれてくる句は尊敬に値する。句会にも参加され精進を続けておられ、もう、それを長い間続けているのだから、本物の俳人だと思っている。

 hikeさんは詩や短文も書かれているけれど、一番心魅かれるのは、やはり歌である。何気ない言葉が歌で返ってきたりすると、百本の薔薇の花より、綺麗にラッピングされた一輪のフリージアを美しく感じるのと同じ様な気がする。

 ナオさんの歌は格別である。感性が似ているのかも知れないが、穂村弘はやはり異性が詠む歌のせいか、心の底からの共感からは遠い。その点、ナオさんの歌には「女」という独特の秘めやかな何かが、そこはかとなく漂う。

 わたしは女性の美意識と男性の美意識は同じだとは思っていない。同じものを見つめていても価値観は大きく異なっている。その一例が「冷静と情熱のあいだ」の辻仁成のBluと江國香織のRossoかも知れない。こんな試みは後にも先にも、これきりだろう。

 愛し合うという二つの異なる形がある。決して同じではない。仮に幸福な恋人同士がいたとしても、それは、各々に異なっている。わたしは特に恋愛詩や、そういう歌を読むと、人間って実にひとりよがりな生き物なんだと思う。

 それだからこそ、短歌や詩や恋愛小説は美しいのだ。人は自己愛から抜け出ることのできない生き物だ。まれに、そうでない人もいるけれど・・・長くなるばかりなので話を「ラインマーカーズ」に戻そう。

 歌は(もちろん俳句も詩もそうだが)一人称の省略された文学だ。だから、想い(言葉)を凝縮して結晶化する作業に等しい。そして、ふと歌人は考える。「何故、詠うのか」別に歌人に限ったことではなく、すべての人が考える。「何故、わたしはここにいるのか」。

 穂村弘の「ラインマーカーズ」にも、俺はここで生きているんだという強烈な、あまりに強烈すぎて、思わず躊躇ってしまうようなメッセージが内包されている。
 
 
 何かのきっかけで新しい世界の扉が開かれることがある。わたしを歌の世界に誘ったのは、やはり俵万智だと思う。

 彼女の歌集、著作物はたくさんあるけれど、その中でも『短歌をよむ』(岩波新書)は、短歌の入門書として優れている。この書の「はじめに」には、こう記されている。

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 万葉の時代、千年以上も前から歌いつづけられてきた、短歌という詩形。短歌の世界を知ることは、千年の旅をするということだ。と同時に、自分自身の「今」を見つめることでもある。
 短歌には、二つの「よむ」がある。千年の旅は、短歌を「読む」、そして自分自身を見つめることは、短歌を「詠む」。
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俵は『短歌をよむ』の中で多くの歌人の素晴らしい歌を取り上げている。その中で村木道彦の作品に彼女同様、わたしもすっかりハマってしまった。

 ふかづめの手をポケットにづんといれ みづのしたたるやうなゆふぐれ

 するだろう、ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 この感性は、あまりに眩(まばゆ)く何か遠く手の届かないものを感じさせたが、同時に、この歌を読むことで歌を詠んでみたいと思ったのも事実である。

 もともと詩を書き続けていたわたしは、短歌を定型詩と考えるようになった。俳句のような季語等の決まりごとがなく、ただ五七五七七と言葉を並べるだけで良いからだ。

 それに新しい短歌の世界を築いた俵万智のおかげで、それまでになかった親しみやすさが生まれていた。彼女の作品が短歌界に及ぼした影響は並々ならぬものがあると思う。

 こうしてわたしは、歌を読み、そして詠むようになった訳である。今日は久しぶりに拙い歌を詠んでみた。

時空超え出逢う人との運命の不思議を想う星見上げつつ

             夢野 華
 
 わが君は千代に八千代にさざれ石の巌(いわほ)となりて苔のむすまで

 国家「君が代」の原典ともなっている歌ではあるけれど、古今集では『賀の歌』の題知らず、よみ人知らずとなっています。

 もともと、この歌の君とは、この歌を贈る相手であり天皇を指しているとは限らないそうです。

 実は、石に苔がむすように、いつまでもお元気でいて下さいねと親しい人に思いをこめて贈られた、新春にふさわしい、おめでたい歌だったのだなあと、わたしも今年初めて知りました。

 皆様、改めて、明けましておめでとうございます。今年もどうか、よろしくお願い致します。