穂村弘の歌集「ラインマーカーズ」をようやく手に入れた。昨日から何度も開いて読んでいるのだが、良いと思う作品と、そうではないと思う作品の落差がありすぎる。
それは誰の歌集にもあることで、自分の歌なら百首詠んでみて、これはと思う作品は、一首あるかなしかだろう。それよりも、「お気に入り」に登録されている、ときおさんや、hikeさん、ナオさんの歌の方が、生き生きと心に迫って来る。
ときおさんの日々、溢れるように生まれてくる句は尊敬に値する。句会にも参加され精進を続けておられ、もう、それを長い間続けているのだから、本物の俳人だと思っている。
hikeさんは詩や短文も書かれているけれど、一番心魅かれるのは、やはり歌である。何気ない言葉が歌で返ってきたりすると、百本の薔薇の花より、綺麗にラッピングされた一輪のフリージアを美しく感じるのと同じ様な気がする。
ナオさんの歌は格別である。感性が似ているのかも知れないが、穂村弘はやはり異性が詠む歌のせいか、心の底からの共感からは遠い。その点、ナオさんの歌には「女」という独特の秘めやかな何かが、そこはかとなく漂う。
わたしは女性の美意識と男性の美意識は同じだとは思っていない。同じものを見つめていても価値観は大きく異なっている。その一例が「冷静と情熱のあいだ」の辻仁成のBluと江國香織のRossoかも知れない。こんな試みは後にも先にも、これきりだろう。
愛し合うという二つの異なる形がある。決して同じではない。仮に幸福な恋人同士がいたとしても、それは、各々に異なっている。わたしは特に恋愛詩や、そういう歌を読むと、人間って実にひとりよがりな生き物なんだと思う。
それだからこそ、短歌や詩や恋愛小説は美しいのだ。人は自己愛から抜け出ることのできない生き物だ。まれに、そうでない人もいるけれど・・・長くなるばかりなので話を「ラインマーカーズ」に戻そう。
歌は(もちろん俳句も詩もそうだが)一人称の省略された文学だ。だから、想い(言葉)を凝縮して結晶化する作業に等しい。そして、ふと歌人は考える。「何故、詠うのか」別に歌人に限ったことではなく、すべての人が考える。「何故、わたしはここにいるのか」。
穂村弘の「ラインマーカーズ」にも、俺はここで生きているんだという強烈な、あまりに強烈すぎて、思わず躊躇ってしまうようなメッセージが内包されている。
それは誰の歌集にもあることで、自分の歌なら百首詠んでみて、これはと思う作品は、一首あるかなしかだろう。それよりも、「お気に入り」に登録されている、ときおさんや、hikeさん、ナオさんの歌の方が、生き生きと心に迫って来る。
ときおさんの日々、溢れるように生まれてくる句は尊敬に値する。句会にも参加され精進を続けておられ、もう、それを長い間続けているのだから、本物の俳人だと思っている。
hikeさんは詩や短文も書かれているけれど、一番心魅かれるのは、やはり歌である。何気ない言葉が歌で返ってきたりすると、百本の薔薇の花より、綺麗にラッピングされた一輪のフリージアを美しく感じるのと同じ様な気がする。
ナオさんの歌は格別である。感性が似ているのかも知れないが、穂村弘はやはり異性が詠む歌のせいか、心の底からの共感からは遠い。その点、ナオさんの歌には「女」という独特の秘めやかな何かが、そこはかとなく漂う。
わたしは女性の美意識と男性の美意識は同じだとは思っていない。同じものを見つめていても価値観は大きく異なっている。その一例が「冷静と情熱のあいだ」の辻仁成のBluと江國香織のRossoかも知れない。こんな試みは後にも先にも、これきりだろう。
愛し合うという二つの異なる形がある。決して同じではない。仮に幸福な恋人同士がいたとしても、それは、各々に異なっている。わたしは特に恋愛詩や、そういう歌を読むと、人間って実にひとりよがりな生き物なんだと思う。
それだからこそ、短歌や詩や恋愛小説は美しいのだ。人は自己愛から抜け出ることのできない生き物だ。まれに、そうでない人もいるけれど・・・長くなるばかりなので話を「ラインマーカーズ」に戻そう。
歌は(もちろん俳句も詩もそうだが)一人称の省略された文学だ。だから、想い(言葉)を凝縮して結晶化する作業に等しい。そして、ふと歌人は考える。「何故、詠うのか」別に歌人に限ったことではなく、すべての人が考える。「何故、わたしはここにいるのか」。
穂村弘の「ラインマーカーズ」にも、俺はここで生きているんだという強烈な、あまりに強烈すぎて、思わず躊躇ってしまうようなメッセージが内包されている。
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